2009年11月07日
上り口説-1
3月頃に「三重城・屋良座森城」を紹介したときに、「上り口説の行程を紹介してほしい。」との声があったので、地道に資料を集めていたのですが、どうにも海路の写真が集まりませんでした。それで紹介するのが延び延びになっていたのですが、海路の写真がいつになるか分からないので、現在ある資料で紹介することにしました。
「上り口説」は、那覇から薩摩までの行程を唄ったものですが、唄のとおりに順次紹介してみたいと思います。
歌詞は、
1.旅ぬ出で立ち観音堂 千手観音伏し拝で 黄金酌とて立ち別る
(たびぬいんじたちくゎんぬんどー しんてぃくゎんぬんふしをぅがでぃ くがにしゃくとぅてぃたちわかる)
となっているのですが、いきなり観音堂から始めるより、守礼門から始めてみたいと思います。
守礼門です。青空の下できれいですね。そしてこちらは戦争で焼ける前の守礼門です。
違いが分かるでしょうか?
そこから綾門大道(首里城から那覇方向に下る道です。)を行くと、中山門があったそうです。これは現存していません。この門は1908年に老朽化のため撤去したそうで、こちらが昔の写真です。
この門があった場所ですが、現在の首里高校グランド付近だそうで、昔ここには中城御殿があったようです。(中城御殿は、ここにあったのですが、1875年に龍譚池の北側に移ったそうです。旧県立博物館があったところです。)
中山門があった場所付近に店があり、その店の前にこんなものがありました。
写真とかで見ると、「もう少し東側かな?」とも思ったのですが、写真も古いし、付近も戦争で景観が変わっているのでここらへんだと思います。
そして、ようやく観音堂です。
ここの昔の写真がどうにも手に入りませんでした。申し訳ない・・・。
この観音堂で千手観音を拝んだんですね。
というところで1番は終わりです。そして2番に行きたいところですが、今日はこのくらいにして、続きはまた明日以降にしておきます。
「上り口説」は、那覇から薩摩までの行程を唄ったものですが、唄のとおりに順次紹介してみたいと思います。
歌詞は、
1.旅ぬ出で立ち観音堂 千手観音伏し拝で 黄金酌とて立ち別る
(たびぬいんじたちくゎんぬんどー しんてぃくゎんぬんふしをぅがでぃ くがにしゃくとぅてぃたちわかる)
となっているのですが、いきなり観音堂から始めるより、守礼門から始めてみたいと思います。
守礼門です。青空の下できれいですね。そしてこちらは戦争で焼ける前の守礼門です。
違いが分かるでしょうか?
そこから綾門大道(首里城から那覇方向に下る道です。)を行くと、中山門があったそうです。これは現存していません。この門は1908年に老朽化のため撤去したそうで、こちらが昔の写真です。
この門があった場所ですが、現在の首里高校グランド付近だそうで、昔ここには中城御殿があったようです。(中城御殿は、ここにあったのですが、1875年に龍譚池の北側に移ったそうです。旧県立博物館があったところです。)
中山門があった場所付近に店があり、その店の前にこんなものがありました。
写真とかで見ると、「もう少し東側かな?」とも思ったのですが、写真も古いし、付近も戦争で景観が変わっているのでここらへんだと思います。
そして、ようやく観音堂です。
ここの昔の写真がどうにも手に入りませんでした。申し訳ない・・・。
この観音堂で千手観音を拝んだんですね。
というところで1番は終わりです。そして2番に行きたいところですが、今日はこのくらいにして、続きはまた明日以降にしておきます。
Posted by T里之子 at 02:32│Comments(4)
│三線
この記事へのコメント
すごいですね
永い歴史をひもときながら、わかりやすく解説してくれるなんて
でも、唄の意味をわかって唄を聴くともっと感情移入していいですね。
これからも、いろいろと教えてください。
よろしくお願いします。
では
永い歴史をひもときながら、わかりやすく解説してくれるなんて
でも、唄の意味をわかって唄を聴くともっと感情移入していいですね。
これからも、いろいろと教えてください。
よろしくお願いします。
では
Posted by ほりろ at 2009年11月07日 07:43
昔の写真が見れるのは、なかなかに、興趣があり、有難い。
モノクロ写真ゆえに、風格が漂っている。
ところで、<うちぬ すばまでぃ うやくちょでぃ つぃりてぃーーー>で
沖のそばまで には意味を咀嚼するに時間がかかった。三重城への道の
途中にあったのが、臨海寺、山号を沖山、その境内に沖の宮があった。
そこで、この寺を<沖の寺>と称したことに由来する。らしい。
話は転ずるが、琉球新報11月1日、朝刊9面に<野村流音楽協会85周
年広告に手書き筆写本の工工四の写真が載っている。今は、コピー、レコー
ダーと便利だがと思うことしきり。ともあれ、古典をならえることへの謝念を
こめて、この9面に<なまわらび>の私も広告をさせてもらいました。
モノクロ写真ゆえに、風格が漂っている。
ところで、<うちぬ すばまでぃ うやくちょでぃ つぃりてぃーーー>で
沖のそばまで には意味を咀嚼するに時間がかかった。三重城への道の
途中にあったのが、臨海寺、山号を沖山、その境内に沖の宮があった。
そこで、この寺を<沖の寺>と称したことに由来する。らしい。
話は転ずるが、琉球新報11月1日、朝刊9面に<野村流音楽協会85周
年広告に手書き筆写本の工工四の写真が載っている。今は、コピー、レコー
ダーと便利だがと思うことしきり。ともあれ、古典をならえることへの謝念を
こめて、この9面に<なまわらび>の私も広告をさせてもらいました。
Posted by 五木田 at 2009年11月07日 08:53
やった! ついに上り口説の旅が見られるんですネ!
今度から上り口説を唄うときは、この記事の写真を思い浮かべながら
唄うことになりそうです。
続きを楽しみにしてます!!
今度から上り口説を唄うときは、この記事の写真を思い浮かべながら
唄うことになりそうです。
続きを楽しみにしてます!!
Posted by ちあきず at 2009年11月07日 08:59
ほりちゃん、久しぶり。唄の流れに沿って説明していくんだけど、分かりにくいところがあったらなんでも聞いて。
五木田さん、コメントありがとうございます。沖の宮の件ですが、確かに臨海寺と一緒にあったんです。それからあちこち引っ越したのですが、最初にあった場所には、今もその跡が残されています。このシリーズで紹介します。
ちあきずさん、遅くなりましたが、上り口説の行程を紹介させていただきます。海の写真が撮れないかもしれないんですが、できるかぎり頑張ります。
五木田さん、コメントありがとうございます。沖の宮の件ですが、確かに臨海寺と一緒にあったんです。それからあちこち引っ越したのですが、最初にあった場所には、今もその跡が残されています。このシリーズで紹介します。
ちあきずさん、遅くなりましたが、上り口説の行程を紹介させていただきます。海の写真が撮れないかもしれないんですが、できるかぎり頑張ります。
Posted by T里之子 at 2009年11月07日 09:09